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【オートレース】飯塚軍団の精神的支柱、その名は久門徹 尽きることない情熱と闘志で、今日も明日も戦い続けていく~飯塚G2オーバルチャンピオンカップ_wows 島 風

【オートレース】飯塚軍団の精神的オートレースそのきることないていく~G2オーバルチャンピオンカップ支柱、その名は久門徹 尽きることない情熱と闘志で、飯塚飯塚今日も明日も戦い続けていく~飯塚G2オーバルチャンピオンカップスポーツ報知

飯塚軍団の精神的軍団の精久門今日<strong>wows 島 風</strong>支柱・久門。2年後には50歳を迎えるが闘志は衰えない

 ◆オーバルチャンピオンカップ(G2、支柱志で戦い18日・初日、名はも明飯塚オートレース場)

 常に、徹尽自分のできること、情熱やらねばいけないことをひたすらこなし続けていく―

 言葉にするのはあまりにたやすいが、と闘いくら時代が流れ、日も年号が変わり、続け加齢とキャリアを重ね続けてもなお、オートレースそのきることないていく~G2オーバルチャンピオンカップこの姿勢が一貫して一切なにもぶれない。飯塚飯塚乱れない。軍団の精久門今日不平も愚痴もひとつもこぼさない。支柱志で戦いただ、名はも明目の前の作業に全霊を傾け、注いで真摯に向き合う。

 だから、wows 島 風久門徹は世代を問わず、選手仲間から人望と尊敬をかき集め、絶対的な影響力を及ぼす存在であり続けるのである。

 今シリーズの前検日も、何なら若手選手たちよりも長くロッカーに居座って、無言のまま愛車の前へ陣取り、工具を力強く握っていた。「次の日にね、作業を持ち越したくないだけなんですよ。直さなければいけないところがあったら、その場ですぐにやる。それをやっておけば翌日は次の作業にすぐに入れますからね。というか、納得できない状態にしているからやるしかないわけで、最初からいい状態にしておけよという話ではあるんですけれどね(苦笑い)」

 ご存じの通り、飯塚の精神的支柱は2003年と2005年のSGオールスターオートレースに勝利している。他にG1を2度、G2も3度制した。1999年に26期生としてデビューして、すでに選手としてのあらゆる栄光はつかみ取りまくった。年齢も48歳になった。2年後には50歳の大台を迎える。

 なのに、なぜ。なぜ、今もまるで新人のようにバイクの前で這いつくばるように整備をこね回している。なにか、久門を駆り立てるのか。動かすのか。「納得いく仕上げをして、納得できるレースをしたいからです。ただ、それだけです。負ければ悔しい。いいレースができたらやっぱりうれしい。それを味わいたくてやっているだけなんです」

 この境地までたどり着いてしまうと、もはや求道の世界である。結果が出ずに、やる気が徐々に減退し、加齢に起因する体力の低下を理由に、デビュー当時の情熱的な仕事ぶりを継続できずに下降の一途をたどる選手の多いことか。

 しかし、それはある意味、自然の流れでもある。時が経過すれば、いずれは己の技量は衰えていく。若手は台頭していく。それが世代交代であるが、その自然な定理に久門は逆らっていく。その姿をすぐ近くで見つめ続けているからであろう。もうひとり、久門と同じように前検日から残業を継続する選手がいた。

 向かいにロッカーを構える弟子の中村杏亮だった。「もう、久門さんはすごい。すごすぎです!としか言いようがないです」と弟子はうめく。「久門さんは厳しい方ですよ。でも、そこには愛情がたくさんあります。自分は若獅子杯で結果を残せませんでしたが、ここで会った瞬間から師匠にいろいろと助言頂きました。“だめだったな”と全部見ていてくれるんですよね。それが久門さんなんです!」

 愛弟子が言う通りに久門はとことん厳しい。時に有無をも口にさせない指導を施す。しかし、面倒を見るからには、厳しさ以上に愛情もこれでもかと注ぎ込む。それは大変な人間付き合いでもある。

 久門は2017年に中村を迎え入れた。当時は直属の弟子を受け持つ心の用意はなかったと話す。「自分のことで精いっぱいだったし、弟子を取るということは自分のことと同じ以上に気を配って育てなければいけない。それは正直、面倒なことだと思っていたので、師匠になることは辞退するつもりでした。でも、そんな時、もう引退した選手からなんですが、こう言われました『自分だって師匠に面倒を見てもらったんだろ。だったら、今度は自分が人に教える番なんじゃないのか』って。それを聞いた時は、ああ、その通りだなあと思いました。そして中村を取りました」

 実は個人的にちょっと心配していた。やさしさがゆえ、厳しいことも進言する久門の愚直な指導に、果たして現代の若者がちゃんと意図を理解して、根性をむき出して闘将塾についていけるかなと不安でもあった。しかし、久門と中村は絶妙の師弟関係を構築していくことになる。久門の時に昭和的なしごきと指導に中村は食らいついていった。

 だがそれ以上に、思った以上に師匠はソフトで柔和だった。もちろん、時には感情を出して怒りもしたが、夜のロッカーではバイクの左右に対峙するように座り込んで、二人で談笑するシーンを何度も見かけた。

 「はははっ。ぜ~んぜん、自分はやさしくないですって(苦笑い)。きっと、厳しくしているところを見てないだけですよ。中村には何度か本気で叩き込んだし、怖いところはよく見せましたけれどね。なっ?リョースケ、何度かガチで言ったことあったよな?」そう師匠が弟子に聞くと「はい!何度もありました!でも…。それでもやっぱり師匠はメッチャやさしいっす!」と笑顔だった。

 それを聞いた久門は超照れて、でもちょっぴりうれしそうに「えっ?そうかなあ。オレってやさしいんだってさ」と目線をずらした。「まあ、弟子を取ったからにはまずは速くしてやらんとね!それはいつも思っていました。というか、もうそろそろ自分も宿舎に帰っていいですか(苦笑い)」

 初めて出会った15年ぐらい前から久門のアニキは、整備に明け暮れ過ぎていて、同世代の選手たちより勤続疲労で心身の摩耗が進行して、一日の終わりはぐったりし切っていた。あれから長く時が流れ、「じゃあ、お先に」とこの日、ロッカーを後にする姿もまたあの頃と全く同じだった。やっぱり、今宵もクタクタだった。でも、きっと10年後も、一日を全力投球&完全燃焼して、またも同じようにぐったりクタクタモードの久門のままであり続けている気がする。いや、その姿しかイメージできない。

 「とか、言いながら急に辞めま~す!といか言っていなくなっちゃうかもね~。まあ、それは冗談ですけれど」と闘将はこの日一番の笑顔で締めた。トール兄、とにかくお体だけはくれぐれもご自愛を。チーム飯塚の土台を支える役目は、彼に男にしか担えないのだから。真の男、久門徹ここにあり。

(淡路 哲雄)

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